宗清寺の歴史

慶長2年(1579年)、浄厳守清和尚は、諸国巡錫の途中に中之郷村名主佐野六郎左衛門宅に立ち寄られて、約2ヶ月間、同宅に滞在されました。 当時の中之郷村は、30年前の永禄12年、甲斐の武田信玄の駿河侵略に伴う蒲原城攻撃によって、神社仏閣をはじめ民家を尽く焼き払われてしまい、住民は避難、あるいは退散してしまいました。そして駿河は武田氏の支配するところとなりましたが、天正3年(1575年)5月、信玄の跡を継いだ勝頼は、織田信長、徳川家康の連合軍と長篠で戦い大敗しました。これによって徳川・北条氏はしばしば駿河の武田軍を攻めて、戦禍は絶え間なく続きました。そして天正10年(1582年)3月には、織田・徳川軍には、甲州征伐を企てて、家康は府中周辺の武田方の諸城を落城させ、朝比奈駿河守信置が守る蒲原城を攻めて、これを陥れました。駿河を平定した家康は、蒲原城を出て大宮口(富士宮市)から万沢、身延を経て甲府に入りました。この日、勝頼は天目山で一族とともに自害して、武田氏は滅亡しました。

その功績によって家康は信長から武田氏の遺領駿河国を与えられ、支配することとなりました。天正14年12月、竣工なった駿河城に移り、村々の人心安定に尽くしたのですが、4年後の天正18年には小田原の役が起こり、大軍を率いた豊臣秀吉は、家康が架した富士川の舟橋を渡って、家康とともに長久保城(駿東郡長泉町)に入りました。小田原城の北條氏が降ると、秀吉は家康に関東八カ国を与えて、駿河は秀吉の一族である中村一氏に与えました。

東海道筋にある中之郷村には、他国からの移住者も多かったらしく、「史料」(中之郷村歎願書 安政年間)によれば、当時(慶長年間)、中之郷村は250軒余の村であったとあります。しかし、村人たちが心の糧とし、信仰の中心である神社、仏寺は兵火にかかり、この復興は未だ成し遂げられていませんでした。

浄厳守清和尚は、このような状態を感知され、この地に堂宇を建立して仏縁を結び、衆生済度の本願を具現しようと決意し、中之郷村清左衛門の土地、一反歩を買い求められ、堂宇を創立しました。

「浄岩山宗清寺代々之覚」(開山大獄宗伯和尚直筆 正保2年3月)によれば、建立したあと数年の間は「新寺」とだけ呼ばれていて、開基の浄厳守清和尚が在住して、寺門の経営をされていましたが、徳望高い富士郡杉田村の安養寺四世大獄宗伯和尚を招請されて開山とされました。また山号、寺号については、守清和尚の依頼によって宗伯和尚は、御自分の宗伯の宗の字と守清和尚 の清の字を取り合わせて、宗清寺と名付けられました。